休み。昨日の分のブログを書いてから、一時間くらいでポケットWi-Fiが届いたので、開封してから就寝。仮眠か?
15時に目を覚まし、朝食とも昼食ともとれる食事をし、整骨院に行く準備をする。
休みだからってこんな生活、いいのかなあ……別にいっか。
今日はいつもの矯正とストレッチの他に、治療もしてもらった。
久々の治療。「だいぶ柔らかくなってますね」とのこと。続けた効果が出てるな。
矯正では相変わらず首が鳴る。わかっていてもびっくりする。
そろそろインナーマッスルにも着手しようとなり、次回は計測をすることに。
電気が流れるんだって……ドキドキするな……楽しみ……
終わったのは17時くらい。
整骨院だけで外出を済ませるのもなんだか勿体なくて、街の方に向かう。
詩人の最果タヒさんの個展へ。
行きたいとは思っていたけれど、開催期間を忘れていた。今週末で終わるのを思い出してよかった。
写真撮影OK、の文字を二度見してしまった。触っちゃいけないのは当然として、撮影が許可されているのは嬉しいな。
…………と思って入ってすぐ、なるほど、と思った。
時計と言葉が連動した作品。
一秒ごとに、一番右の言葉が変わっていく。
一分経つと、真ん中の言葉が変わる。
一番右の言葉は(恐らく)、60個あるのだろう。前の00秒と次の00秒は同じ、だった、ような。
きっと一時間後には、左側の言葉も変わっているのだろう。
一日で一度(もしくは二度)しか出会えない詩。刹那的だ。書かれている文字なのに、発された言葉と同じような速度で通り過ぎていく。
これは、思わず切り取りたくなる。一瞬の美を手に入れたくなる。
自分が目にしたものはもうとっくに過ぎ去ってしまっているのに。なんだか滑稽だな。
他にも、スマホが一台置かれており、最果タヒさんが実際に詩を書いている時のスマホ画面の映像を流している作品があった。
打ち間違いを修正したり、一度書いたものを別の言葉に書き換えたり、思案する間があったり、一瞬、まるでその場で透明人間が書いているかのように錯覚してしまった。
もしくは遠くで誰かがリアルタイムに書いているのを投影しているんじゃないか、とか。
書かれた言葉、消された言葉、書かずにおかれた言葉、当たり前だけれど、一つの詩が生まれるまでには、そのどれもがあるんだな、と思った。
出来上がっていく詩を読んで、残らなかった言葉にも思いを馳せた。自分にも、そういうものがある。いや、自分の場合は多すぎるな。言葉が少なすぎる。
天井から輪が吊るされていた。白い帯のようなもの。
内側に、ぐるりと詩が書かれている。どこから読んでも一編の詩になる。
始まりも終わりもない詩が、ちょうど自分の頭の位置にある。
同じところをぐるぐると回る思考みたいだ。やばい状態に陥った時を可視化するとこんな感じなんだろうか。
天井から吊るされた、たくさんの文字。
風で激しく動くもの、ゆっくりと回転するもの、ほとんど動かないもの。
同じモービルでも、少し目を離すと下だけ回転していて、続けて読むと違う詩になる。
見えている文字からどれをピックアップするかでも、まったく違う形になる。
同じ光景には、同じ詩には、きっと二度と出会えないんだろう。
刹那的だ。本当に。
その儚さも、たくさんの言葉が揺れている光景も、言葉に埋もれそうな感覚も、とてもきれいだな、と思った。
図書館や本屋で寝たい気持ちを思い出した。たくさんの文字に囲まれて寝てみたい。
言葉を、その意味も、その形すらも、見る人間に完全に委ねているんだろう。
何かを伝えたい、受け手を動かしたい、というより、乱暴な言い方をすれば、勝手に感じてくれ、というような。
「こういうことがあったんですよ」と話しかけてくるんじゃなく、「そこに言葉を置いていますから」と指さされているような感覚。
それを見るも見ないも自由だし、腰を落ち着けて読むのも、ぱらぱらと斜め読みで一文二文を視界の隅に捉えるだけでもよし。
そこに置きましたから、あとはどうぞ。と。置かれているものも気付いたら無くなっていたり、形が変わっていたりする。
言葉とも受け手とも、すごく、距離が遠い気がする。
そこで、この展覧会のタイトルを思い出した。
「われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです。」
自分の中には、人間は分かり合えない、という前提がある。
心から分かり合える、なんてことはありえないと思っていて、でも、だからこそ、どういう距離感で触れ合うかをお互いが測り続けるのが、交流なんだろう、と。
「われわれ」とは、作者を含めた人間のことかもしれない。
個人化が進んだ現代。今の時世は特にだけど。リモートで仕事ができると誰とも会わず話もせず一日が終わる人もいるらしい。
それでも誰もが生きているから、お互いがかすかに見える位置で、遠いけれど、近付けないけれど、離れすぎないでいて、あなたの輪郭を浮かび上がらせて、という、小さな願いのような。
星がなければ、夜はただ濃紺の平べったい空だ。人間がいなくなった世界は、いずれ灰色になるんだろう。
星を消さないために、だけど近づきすぎないように、それぞれの絶妙な位置を保つために、詩を書いているのかな、とか、思った、次第。
「われわれ」とは、詩なのかもしれない。
詩には誰かを導くような力も、感動させるような力もない。朧気で、消えそうな、小さな星。
だけどその星があることで、夜空があることがわかる。詩が詩として存在するには、それを読む人間が必要だ。
星が詩なら、人間は夜で。マスクで口を塞いで喋らず、集まらず騒がず静かに生きる姿は、自粛前から比べたら夜みたいだな、なんて。
静寂の中に、きらりと光る、小さな星たち。星は同じ明るさでも、地球からの距離は様々らしい。まるであのモービルの作品みたいだ。
それらを置いていくことで、夜の存在を浮かび上がらせる。
星は何も働き掛けない。そこにあるだけ。綺麗だと空を見上げた人が、星と一緒に夜空を見る。
詩を読んだ人間が、その言葉の向こうに、自分を、作者を、思い出の中の誰かを見る。
触れられない位置にいるけれど、それでも確かに存在を確かめる時だ。
考えながら書いたら時間かかったし、すごく疲れたな。
文章としておかしいところもあるけれど、もうこんな時間だし、推敲はやめよう。
元々文章が上手いわけでもないしね。大目に見てくれ、未来の自分。
はっきりとした答えのないものを自分の中でこねくり回すのは好きだから、楽しかった。
全然筋が通ってないところもあるかもしれんけど。そこも大目に見てくれ。
最後に、なんだかかわいいな、と思ったものを。
ありません。かわいい~。